超常現象の謎解き」というサイトがあります。
数年前に見つけたのですが、これが非常に面白い。

そして、何より面白かったのが、「懐疑論者へのよくある質問」というページ。
マイナスなイメージで捉えられてしまう「懐疑的」という言葉の本質を見事に表現しています。

話は変わりますが、私は日本の競馬予想はアメリカに比べて遥かに遅れていると感じます。
アンドリューベイヤーがBeyer Speed Figureを考案したのが1975年。
日本で西田和彦氏が西田式スピード指数を提唱したのが1992年。
これだけでも17年遅れです。

日本競馬はドラマ性を持ったスターホースにより爆発的な人気を誇ったという歴史がありますから、競馬予想の科学的側面がクロースアップされる機会は少なかったのでしょうね。
今でも、根拠の無い「競馬格言」を信じている方も多いようで、ある種そういった文化が根付いてしまっているのだと思います。
今でも何というか、時代遅れのメディアが時代遅れの手法で競馬予想を行っているように見受けられます。
それが日本競馬……というか日本の良さでもあるのかもしれませんが。

しかしもう、多くのメディアがやりがちな分かりやすい側面ばかりを強調する手法には何の伸びしろも無いはずです。

そこで、重要になってくるのが「懐疑的な視点」なのではないかと思います。
目の前のことをどれだけ真剣に向き合えるか、どれだけ疑えるか、そういったことが問われてくるのがこれからの時代になると考えます。

他人の予想文に、「○○騎手を信じる」とか、「この馬を信じる」とか書いてあるケースがあります。
でも、この「信じる」という言葉が使われている時って、もはや信じていないことが多いと感じます。

どういうことか説明しますね。
そもそも、予想は根拠の上に成り立つものです。
その根拠を順を追って提示したものが予想として完成する訳ですから、「信じる」といった感情的要素が入り込む隙間は本来全く無いのです。
むしろ、初めから「信じる」スタンスの予想は、懐疑的なプロセスを経ていない分、他人から見れば本質的には「信じることが出来ない」予想になってしまっているのです。
厳しい良い方をすれば、信じるに足る材料・根拠が無い時ほど、「信じる」というマジックワードによって心理的な裏付けを作成してしまうのです。 



いくつか、「超常現象の謎解き」で紹介されていた懐疑的な至言を紹介しておきますね。

「健全な信用に至る道は、懐疑の深い森を通っている」ジョージ・ジーン・ネーサン
私たちに必要なものは、信じようとする意志ではなく、真実を見い出そうとする意志である」バートランド・ラッセル
「『ダマされやすさ』は、冷静な分別が "願望" に打ち負かされると心のなかに蔓延するものだ。だから自分の心のなかの "願望" を冷静に見つめる勇気が、ダマされないためのワクチンになる」ジョー・ニッケル