あの、後藤騎手の悲報から時間が経って、今の競馬に大分慣れてきた。
悲しみの風化は人間の強みでもあるが、悲報を聞いた瞬間の衝撃から考えると、今普通に競馬を見ていることに違和感を覚えてしまう。

私は後藤騎手のファンでは全くなかった。
だから、悲報を聞いた瞬間の感情は悲しみというより違和感だった。
もっと言えば、「後藤騎手の死」という具体よりも、「無意識に信じていたものが崩れてしまった」という抽象として受け取っていたのかもしれない。
「後藤騎手の死」という信じられない事件によって、世の中において信頼している物事までどこかで崩れてしまうんじゃないかという感覚が生まれた。

平坦な道だと道だと思っていたら穴が有ったとか、突然足を掬われたような、昨日まで見ていた景色がどこかで変化してしまったような、そんな恐怖に近かった。

後藤騎手のファンでなくとも、後藤騎手のキャラクターを知れば無意識の信頼を寄せてしまう。その無意識の信頼には「自殺するような人では無いな」という成分を含む。

ファンでは無い人が衝撃を受けてしまうのは、その辺りの意味合いが強いのではないかと、今更になって思ったので書いておきました。